写真提供:ロイター/共同通信イメージズ

 三菱、三井、住友――日本経済を長年にわたって支えてきた旧3大財閥。なぜこの3つのグループが、幕末から令和に至るまで経済界の頂点に君臨し続けるのか。『 教養としての 三菱・三井・住友』(飛鳥新社)から一部を抜粋。彼らのルーツや特色を探る。

 住友は明治時代から、制度と数字で経営する近代企業のモデルをいち早く築いていた。血縁を重視した家業から、プロフェッショナルな商業組織に進化したきっかけは、別子銅山の経営である。その転換を支えた要因とは?

本稿は「JBpress Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2026年5月1日)※内容は掲載当時のもの

合理的な経営と「家訓」を共存させる「結束の住友」

 当時、江戸幕府は金・銀・銅を国家の重要な専売品として統制していました。特に銅は、長崎の出島を通じてオランダや中国に輸出される重要な貿易品でした。

 その中で、住友家は「泉屋」という屋号で大阪に進出し、長堀の地に拠点を構えて1691年に四国の別子銅山の経営に進出し、日本が世界一の産銅国になる原動力となりました。別子銅山は幕府やオランダ商館からの信頼も厚く、幕末まで輸出銅を生産し続けました。

 また、この時期には住友家の経営哲学も確立されていきました。政友の思想をベースに、「信用第一」「浮利を追わない」「正しい道を行く」といった価値観が社員にも共有されていきました。

当時の住友では、商業活動における判断基準を文書にまとめ、組織的に運営していたこともポイントです。現代の企業ガバナンスの原型のような取り組みだったと言えるでしょう。

「コネより実力主義」を取り入れた先見の明

 さらに、人材登用の方法にも特徴がありました。

2/3 PAGES

 血縁に頼らず、能力のある外部人材を積極的に採用し、単なる「雇い人」ではなく「同志」として育成していく風土があったのです。良い意味で上下関係が崩されるような、現代的な考えがこの時代にあったことには、ちょっと驚きますよね。

 このような考え方のおかげで、住友は単なる家業ではなく、「プロフェッショナルな商業組織」へと進化していったのです。

 やがて江戸時代の後期になると、別子銅山(べっしどうざん)の経営が悪化して、住友は経営難に陥りました。

 住友と別子銅山の飛躍的な発展は、明治時代に入ってからとなります。

 幕末の時期になると、外国船の来航や幕府の衰退により、日本経済は不安定になっていきます。銅の輸出量も減少していきました。

しかし、住友家はそこで立ち止まるのではなく、新たに鉱山経営や金融への展開を模索し始めたのです。これは、明治時代の近代化に向けた大きな布石となりました。

福利厚生を超えた、従業員ごと抱える街づくり

 住友グループが「ただの商人」から「近代産業の担い手」へと変わる大きなきっかけは、愛媛県にある別子銅山の経営でした。

 この銅山は元々幕府領であり、江戸時代の1691年に住友家が運上金(税金)を支払うことで経営権を許可されて開いたものです。そのため、大阪から手代(店員)を派遣し、現地で坑夫を雇い、衣食住を世話しました。

 それが明治維新を機に大きく動きます。1869年、幕府領であった別子銅山は新政府軍に接収されました。住友は明治政府に経営権の継続を許可されると、フランス人技師を雇って近代化します。ここからが、住友が近代企業に変わっていくスタートラインでした。

 この時代を語るうえで欠かせない人物がいます。それが広瀬宰平(ひろせさいへい)です。

 宰平は近江(現・滋賀県)出身の住友の手代(店員)で、幕末期には別子銅山支配人に就任していました。明治維新の混乱期に、彼は「別子銅山をもう一度立て直す!」という大改革を断行します。

 そして、最新の採掘・製錬技術を欧州から導入するなどして採掘量を増やし、鉱山から港までの道を整備して輸送システムを確立させました。

しかし、宰平の真にすごかった点は、「働く人の環境」を重視したところです。鉱山で働く人たちやその家族のために、社宅、学校、病院、商店などを整備し、いわゆる「企業城下町」を作り上げます。

 単なる福利厚生ではなく、「安定した労働力を確保するには、まず人の生活を整えること」という考えがあったのです。

3/3 PAGES

「所有者」と「経営者」を分けて企業運営を守る

 そしてもう一つ、宰平が行ったことに、「所有と経営の分離の明確化」があります。

 住友財閥が近代的な産業構造へと移行する中で、旧態依然とした家族経営的な体制では限界が見え始めていました。特に、当時の当主である住友友親は病弱で、宰平のような実務に長けた番頭が実権を握ることが多くなっていました。

 宰平は1877年に住友家から正式に「総理代人」(後に「総理人」となり、二代目以降は「総理事」と呼ばれる)に任命されます。これは、それまで各事業の責任者が住友家当主の個別の指示を受けていた体制を改め、事業全体を統括する最高責任者を設けるというものでした。

 これにより、住友家当主が「所有者(オーナー)」、そして総理事は「経営者(プロフェッショナル)」という関係になります。この体制によって、病弱であったり、必ずしも経営の専門家ではなかったりする当主から、経営のプロフェッショナルである総理事に事業の全権が委任されました。

 これは、近代的な企業組織における「所有と経営の分離」の先駆けであり、感情や血縁に左右されず、合理的な判断で事業を運営する基盤が築かれました。

 各事業がバラバラに動くのではなく、総理事が全体の事業方針を策定し、統一的な指揮を執ることで、住友財閥としての戦略的な事業展開が可能となりました。これにより、別子銅山の近代化や新たな事業への進出が迅速に行われたのです。

「家訓」で結ばれた強い絆が「結束の住友」に

 広瀬宰平が創設した総理事の組織は、単なる所有と経営の分離だけではありませんでした。それは、プロフェッショナルな経営者が、住友の「家訓」という絶対的な規範に基づいて事業を運営する、住友独自の「監督」システムでもありました。

 住友家当主は、経営の専門家ではない代わりに、「家訓」という形で住友の精神的支柱を担い、総理事はその規範から逸脱しないよう経営を監督するという、すみ分けが行われました。そして、総理事は「信用」と「確実」を重んじる住友の精神を体現するプロフェッショナルとして、各事業会社を統率していきます。

住友家当主(所有者)と総理事(経営者)が、家訓という共通の理念で結びつき、互いを尊重しながら役割を分担する、他に類を見ないガバナンスの原型を築いたのです。

 こうした改革の結果、別子銅山は明治10年代には日本最大級の銅の産地となり、日本の銅輸出の大部分を担う存在に成長しました。この利益が、後に住友財閥を築くための「貯金」になっていきます。

 住友はこの時期に、昔ながらの商家から「制度と数字で動く近代企業」へと大きく進化しました。