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 量子力学の誕生から100年とされる2025年、米グーグルが量子チップ「ウィロー」を発表するなど、量子コンピュータの開発競争は新たな局面に入った。こうした技術の進歩と注目の高まりを踏まえ、「量子技術はよく分からない、では済まされない時代が訪れようとしている」と語るのは、2025年11月、著書『教養としての量子コンピュータ』(ダイヤモンド社)を出版した、京都大学大学院情報学研究科教授の藤井啓祐氏だ。量子技術を理解するためのポイント、グーグルが提示した「量子超越」の意味について同氏に聞いた。

本稿は「JBpress Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2026年5月15日)※内容は掲載当時のもの

「量子はよく分からない」では済まなくなる

──著書『教養としての量子コンピュータ』では、量子コンピュータの基礎知識や実例について解説しています。どのような背景から本書を出版したのでしょうか。

藤井啓祐氏(以下敬称略) 近年、一般の方でも「量子力学」や「量子コンピュータ」といった言葉を耳にする機会が増えてきていると思います。

 2025年は量子力学の研究が本格的に始まってから100年という節目であったことから、教育科学文化機関(ユネスコ)によって「国際量子科学技術年」に制定され、世界的に量子技術への認知度や注目が高まりました。

 また、大阪・関西万博では、私が副センター長を務める大阪大学量子情報・量子生命研究センター(QIQB)で稼働する純国産量子コンピュータに会場からインターネット接続し、来場者が量子コンピュータを体験するイベントを開催しました。

 量子力学はアーティストにも影響を与えています。宇多田ヒカルさんの楽曲「Electricity」は、量子の重要な性質の一つである「量子もつれ」にインスピレーションを得て制作されたといわれています。

 このように一般の方に知られる機会が増える一方で、量子の世界には理解を難しくする特性があります。量子の世界は直接目で見ることができず、しかも直接観測しようとすると対象に影響を及ぼすため、正しい状態を観測できません。これが量子力学の直感的な理解を妨げています。

 ただ、理解しにくいからといって、分からないまま放置してよいとは思いません。例えば、ChatGPTのような生成AIを考えてみてください。現在、生成AIは日常で広く使われており、「よく分からない」では済まない状況になってきています。量子技術も同じではないでしょうか。

 そこで、できるだけ平易な言葉を使って量子力学を多くの方に伝えたいと考え、本書を執筆しました。

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ビジネスリーダーが最低限理解すべき「量子重ね合わせ」と「量子もつれ」

──経営者やビジネスリーダーが量子コンピュータを正しく理解するために、どのような特性を学ぶべきですか。

藤井 最初に押さえるべきキーワードは「量子の重ね合わせ」と「量子もつれ」です。量子の重ね合わせとは、「白黒はっきりしない状態」が物理学的に許容されている現象を指します。

 私たちの日常の世界では、物体は特定の場所に確実に存在します。例えば、視界の右側にある1本のペンは、実際に右に存在します。これを「実在」と言います。

 ところが量子力学のようなミクロの粒子を扱う世界では、この実在が非常にあやふやになります。粒子はある座標の一点に存在するのではなく、空間に広がりを持った「重ね合わせ状態」として存在すると考えます。粒子は右にある可能性もあるし、左にある可能性もあるのです。このようなはっきりしない状態を「量子の重ね合わせ」と呼びます。

「はっきりしない」という状態に疑問を抱く方もいらっしゃるかもしれません。これは裏を返せば「両方の可能性を同時に持っている」ことを意味します。

 既存のコンピュータが「0」と「1」を使って順番に処理するのに対し、量子コンピュータは重ね合わせを利用することで、膨大な情報を同時並列的に処理できます。これが量子コンピュータでの計算能力が飛躍的に向上する理由です。

 続いて、量子もつれについてです。これは2つの異なる粒子がまるで双子のように連動し、全く同じように振る舞う状態を指します。

 例えば、一方が上に動けば他方も上に、一方が回っていれば他方も回っています。一方が白なら、他方も必ず白です。示し合わせているわけではありませんが、結果は必ず同じになります。また、2つの粒子が離れていても、そのような連動が実現されます。

 この量子もつれの性質を使うと、情報を遠く離れたところに転送する量子テレポーテーション、誰からものぞき見されない状態で情報を共有する量子暗号などに応用できるようになります。

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「量子の特性」を直接観測できない理由

──量子の重ね合わせや量子もつれは、ミクロの世界の現象であり、目視では確認できないのですね。

藤井 はい、その通りです。量子コンピュータを構成する量子ビットは設計段階では直接見ても問題ありません。しかし実際の計算では、量子の状態は外部環境の影響を強く受けます。

 量子重ね合わせを維持したまま計算するには、外界からの熱や振動といった影響を極力排除する必要があります。そのため、真空チャンバーに封じ込めたり、極低温まで冷却したりするなど、厳密に管理された隔離環境で動作させます。

 このような環境に置かれているため、量子重ね合わせや量子もつれは直接目で確認できません。さらに、量子の状態を観測しようとすると、外部からの影響が加わり、重ね合わせの状態が崩れてしまいます。

 このように量子の重ね合わせは非常に壊れやすい性質を持っているわけですが、私はこの特徴を説明する際、『鶴の恩返し』の例を用いることがあります。

 物語では、男が鶴を助けた後、美しい娘が現れて妻となります。娘は「決して部屋の中をのぞかないでください」と伝え、布を織り続けます。しかし男が約束を破って覗いた瞬間、鶴は飛び去ってしまいます。

 部屋の中では、鶴と娘が重なった状態が保たれていました。しかし観測したことでその状態が崩れ、結果として鶴が消えてしまったと考えることができます。

 量子コンピュータも同様に、量子ビットが正しく機能するためには、量子の状態を外部環境から守り、孤立させることが不可欠です。

 私たちが日常的に使用しているコンピュータも、極端な温度や水分の影響を避けるために筐体(きょうたい)で保護されています。量子コンピュータはそれ以上に外部の影響に敏感であり、より厳密な隔離環境が求められます。

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グーグルが示した「量子超越性」が持つ意味

──著書では、2019年に米グーグルが量子プロセッサ「シカモア」を用いて量子超越性を実証したと発表した出来事に触れています。グーグルの発表はどのような意味を持つのでしょうか。

藤井 私たちは、この出来事を量子コンピューティングの歴史における極めて重要な転換点と捉えています。

 2019年の論文発表以前にも、量子コンピュータはすでに存在していました。しかし当時の装置は規模が小さく、従来のノートパソコンでも同じ計算を再現できる程度にとどまっていました。そのため、「計算」という観点では、既存のコンピュータを上回る状況には至っていませんでした。

 一方、グーグルの論文では、特定の計算において量子コンピュータがスーパーコンピュータよりも圧倒的に速く処理できることが世界で初めて示されました。量子コンピュータと既存のコンピュータを同じタスクで比較し、どちらが速いかを議論できる段階に到達した点に大きな意味があります。

 例えば、自動車が初めて登場した当初は、速度も遅く乗り心地もよくなかったため、多くの人が馬の方が実用的だと考えていたのではないでしょうか。

 しかし、自動車の性能が向上し、馬よりも長距離を安定して走れるようになると、人々の評価は徐々に変化しました。利便性が認識されるにつれて、自動車へと移行する動きが広がっていきました。

 現在では、長距離移動において馬が選択される場面はほとんどありません。この変化は、新しい技術が既存技術を置き換えていく典型的なプロセスを示しています。

 2019年のグーグルの論文は、成熟した既存のテクノロジーに対して、量子コンピューティングという新しい技術が同じ条件で比較可能な段階に到達したことを示しました。さらに、その比較において量子コンピュータが優位性を示した点で、極めて画期的な出来事だったと考えています。