
iMac発売当時のスティーブ・ジョブズ
写真提供:ロイター/共同通信イメージズ
2025年11月、アップルが約10年ぶりにスマートフォン市場の首位を奪還する見通しとなった。市場が成熟する中で、企業は製品の価値をどう伝えるかが改めて問われている。その象徴的な例の1つが、1998年に発売されたiMacのテレビCMだ。詳細なスペック説明を排し、コピーを「Think different」という一言だけに絞った背景には何があったのか。
『 戦略書としての老子』(原田勉著/東洋経済新報社)から一部を抜粋・再編集。老子が説くシンプル化の重要性を手掛かりに、ジョブズの“本質だけを残す”思考法について考察する。
本稿は「JBpress Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2025年12月26日)※内容は掲載当時のもの
シンプルなアイデアから出発する

『 戦略書としての老子 』(東洋経済新報社)
老子の「小さくやさしいことに手を付ける」というのは、「シンプルなアイデアから出発すべきである」と解釈することもできる。
ただし、同社の最初のシンプルなアイデアである「冒険」は成功しなかった。アイデアがシンプルであり、直観的であったとしても、当然ながら成功する保証はない。シンプルさは成功のための必要条件であり、十分条件ではない。だからこそ、ピボットが必要となる。
しかし、多くの開発者、技術者はシンプル化よりも複雑化、高度化を志向する傾向が強い。そのほうが張り合いがあり、かれらの能力をいかんなく発揮することができるからだ。シンプル化はその逆であり、特に優れた技術者にとっては魅力的な方向ではないかもしれない。
しかし、アップル製品のように、世の中のブレイクスルーはしばしばシンプル化によって実現されてきた。シンプル化することは必ずしも技術的に稚拙なわけではなく、より高度な技術的要求を満たさなければならないことが多い。たとえば、iPhoneの場合、ホームボタンをなくすことで、高度なタッチコントロール技術を開発する必要があった。
したがって、シンプル化することは、技術的な高度化をも意味することになり得る。このことから老子の教えをイノベーションとして言い換えれば次のようになる。
「シンプルなことからイノベーションは生じる」
哲学者、カール・ポパーは、多くの優秀な弟子を育てたことでも有名である。ポパーは常々、哲学の論文を書く際、「君は明確であらねばならないし、決して大言壮語や不必要に複雑な言いまわしを使ってはならない」と学生に対して口酸っぱく説き、当時学生であった著名な哲学者ジョゼフ・アガシに対しては、その8歳になる娘に言及し、「ティルザのために書きなさい」と言っていたという。
8歳の娘にもわかる「シンプルなアイデア」こそが、創造の源泉となる。多くのイノベーションに共通するのは、身近でシンプルなアイデア、ニーズを製品・サービスとして展開しているという点にある。
アップルがMacintosh、iPod、iPad、iPhone、Apple Watchなど画期的な新製品開発に成功し続けてきたのは、ただデザインや操作、複数の機能をシンプル化するという方針があったからにほかならない。デバイスをシンプルにすることで、ユーザーの自由度は高まり、利便性も向上する。スティーブ・ジョブズもまたシンプルさを称賛するのである。
優れたリーダーはやさしいことしかしない
スティーブ・ジョブズがアップルに復帰した後、1998年に発売される予定だったiMacのテレビCMのメッセージを巡ってかれは悩んでいた。iMacのデザイン、使いやすさ、美しさを30秒のCMでどのように伝えたらよいのかわからなかったのである。
かれはクリエイティブディレクターであったリー・クロウの部屋へ行き、相談した。すると、クロウは机にあった紙を丸めてボールをいくつか作り、それをまとめてジョブズに投げつけた。ジョブズはそれをキャッチすることができなかった。
驚いたジョブズは、「何をするんだ」とクロウに言うと、クロウは再び「スティーブ」と呼びかけ、一個の紙ボールを投げつけた。ジョブズは、今度はそれをキャッチすることができた。そして、クロウはこう語った。
「これが良い広告なのです」
その後、iMacは有名なキャッチフレーズ「Think different」とともに大々的に宣伝され、大きな成功を収めることになった。このiMacのCMには、そのデザイン、使いやすさ、美しさを説明した音声メッセージは一切流されていない。ただ映像、音楽とともに「Think different」という文字が表示されるだけのものになっている。
CMに多くの情報を含んでも、消費者はそれらを1つもキャッチすることができない。かれらの注目をひくためには、メッセージを1つに絞り込む必要がある。あれもこれもと情報満載にしたものは良いCMではない。
良いCMとは、あくまでもシンプルな1つのメッセージを効果的に伝えたものになる。iMacの場合は、それが「Think different」であった。明らかにこれはIBMの社是「THINK」を念頭においたものである。この「シンプルさの効用」は、CMにとどまるものではない。ありとあらゆるものに及んでいる。おそらくイノベーションとは、生活のシンプル化にあるのかもしれない。
一般に人間は複雑なことを嫌い、シンプルなものを好む。脳科学的にいえば、複雑なものは認知負荷を高め、その情報処理を困難にする。一方、シンプルなものは認知負荷がかからず、容易にその情報を処理し、記憶として貯蔵することが可能になる。そこに何か感情に訴えかけるものがあれば、さらに想起されやすくなる。
つまり、
「シンプルなものは高い認知処理効果、想起効果が期待される」
その結果、シンプルな製品、サービス、ビジネスモデルは消費者に強くアピールすることになる。
1967年京都府生まれ。スタンフォード大学Ph.D.(経済学博士号)、神戸大学博士(経営学)。神戸大学経営学部助教授、科学技術庁科学技術政策研究所客員研究官、INSEAD客員研究員、ハーバード大学フルブライト研究員を経て、2005年より現職。専攻は、経営戦略、イノベーション経済学、イノベーション・マネジメントなど。大学での研究・教育に加え、企業の研修プログラムの企画なども精力的に行っている。主な著書・訳書に、『OODA Management(ウーダ・マネジメント)』(東洋経済新報社)、『イノベーション戦略の論理』(中央公論新社)、『OODA LOOP(ウーダループ)』(訳・解説、東洋経済新報社)、『「価値」こそがすべて!』(訳、東洋経済新報社)、Economics of an Innovation System(Routledge)などがある。
著者HP:https://strategy-ooda.com/wordpress/