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 501キロの路線網を持つ日本最大の私鉄・近畿日本鉄道(近鉄)。その歩みは、鉄道会社の歴史であると同時に、沿線の未来をどう形づくるかという挑戦の歴史でもあった。駅員、そして広報として、長年現場を見てきた福原稔浩氏が、近鉄の発展を支えた数々の決断を振り返る『近鉄学 -元名物広報マンが解き明かす、日本最大私鉄の強さの秘密-』(ワニブックス【PLUS】新書)から一部を抜粋。鉄道で未来の暮らしをつくる阪急電鉄と、人々の移動と営みを支える近鉄。同じ関西私鉄でありながら対照的な2つの思想の出発点に迫る。

鉄道と軌道──関西私鉄の性格を決定づけているもの

 明治時代に、鉄道は「開業さえすれば儲かる事業」と見なされ、新線建設の請願が相次ぎ、中には投機的なものまで含まれていました。

 関西は関東と比べて平野部が狭く、街道沿いに大阪・京都・神戸・和歌山といった都市が点在しています。しかも当時の官営鉄道は、列車本数が少なく、速度も遅く、駅数も限られ、運賃も高額でした。

 そこで官営鉄道に並行し、海外から導入した高性能な電車による高速運転を目指す鉄道建設の機運が高まっていきます。

 しかし監督官庁は、競争を嫌う体質を持ちやすく、それは鉄道行政においても同様でした。官営鉄道に並行する路線を「鉄道」として認可することには、なかなか首を縦に振りません。

 そこで知恵者が現れ、「鉄道」ではなく「軌道」として建設を請願するという発想が生まれたのです。鉄道省(鉄道院)は競合相手の出現に難色を示しましたが、事業者側は「これは点在する集落を結ぶ局地鉄道であり、軌道であるから速度は遅く、官営鉄道とは競合しない」と主張しました。

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 内務省もまた、路線の一部でも道路上に敷設されていれば、大半が新設軌道であっても「軌道」とみなすという拡大解釈により、敷設特許を与えます。こうして開業したのが、阪神電気鉄道でした。

 阪神は「軌道」という建前を取りながらも、従来の路面電車とは一線を画し、最初から大阪と神戸を結ぶ都市間高速電気鉄道として登場します。

 この手法にならい、1910年3月には箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線)が、同年4月には京阪電気鉄道が開業。さらに1914年には大阪電気軌道(現在の近鉄奈良線)が続きました。これらの路線に共通するのは、官営鉄道と並行し、最初から電車による高速かつ頻繁運転を行った競合路線であったという点です。

 この“競争から始まった関西私鉄”の系譜を各社ごとに詳しくひもといていきます。

始祖小林一三がもたらした、阪急電鉄の革命

 小林一三は阪急電鉄の創業者であり、日本における私鉄経営と都市開発のあり方を根本から変えた人物です。

 開業当初、小林は専務取締役の立場でしたが、社長が不在だったため、実質的には経営の全権を担っていました。小林は、「ただ鉄道を敷くだけでは人は乗らない」と見抜きます。鉄道事業を核に、都市開発と文化事業を結びつける。その独創的な構想は、当時の常識を大きく超えるものでした。

 小林は、単なる鉄道経営者ではありませんでした。鉄道を軸に、住宅、商業、娯楽、文化、教育までを一体として構想した、日本初の本格的な「沿線価値創造モデル」の設計者でもあったのです。

 その思想の根底にあったのは、「鉄道は人を運ぶためにあるのではない。人の暮らしをつくるためにある」という発想です。

 線路を敷く前から、「誰が、どのように暮らすのか」を考え、住まいを整え、楽しみを用意し、文化を育てる。この発想そのものが、後に「阪急モデル」と呼ばれる独自の私鉄経営思想を形づくっていきました。

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 この阪急モデルと対照的なのが、近鉄の思想です。阪急が「鉄道は暮らしをつくるもの」という発想に立っていたとすれば、近鉄の思想は、「鉄道は人の移動を引き受けるもの」でした。

 阪急は、まだ人のいない場所に線路を敷き、住宅や娯楽、文化を先に配置することで需要そのものを創出しました。一方の近鉄は、すでに人の営みがあり、歴史や信仰、産業が根づく土地と土地を結び、その流れを太く、確実に受け止めることに力を注いできました。

 阪急が「未来の暮らしを設計する鉄道」だとすれば、近鉄は「現実の暮らしを支える鉄道」でした。同じ私鉄でありながら、その出発点と使命感は、対照的と言えるほど異なっていたのです。

 JR福知山線はもともとは阪鶴(はんかく)鉄道という私鉄でしたが、1907年、鉄道国有法によって国に買収されます。その買収時、小林一三は監査役として名を連ねていました。

 その資金を梃子に設立されたのが、箕面有馬電気軌道です。ほぼ全線が福知山線と並行していましたが、これは箕面や宝塚の社寺を結ぶ遊覧鉄道であり、福知山線の競合ではない、という建前を取りました。

 先発の阪神や京阪が、街道沿いの既存市街地を縫うように建設されたのに対し、阪急は農地や未開の山林といった、人口集積の少ない地域を切り拓いて建設されました。

 そのため、阪急はまず「利用客そのもの」を自らつくる必要がありました。そこで大阪梅田から宝塚にかけて沿線農地を買収し、住宅地として整備。建売住宅として割賦(かっぷ)販売します。

 商品の代金を分割して支払う割賦販売は当時としては画期的で、今日の住宅ローンの先駆けでした。