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知識やノウハウはネットを通して閲覧が可能になり、AIに尋ねれば瞬時に答えを示してくれる時代になった。それでもなお、“学びの質”や効率を高める人間の「師匠」の大切さは失われていない。『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)から内容の一部を抜粋。日本史の偉人たちが、優れた人物からどんな教えを受けてきたかを解説する。
優れた師は古い価値観にとらわれず、普遍的な価値観の軸を持っている。勝海舟や坂本龍馬らに大きな影響を与えた横井小楠とは、いかなる人物だったか。
時代の先を読む力がなければ、人にものを教える資格はない

『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)
小楠の先を見通す力は、明治維新に関わる重要な局面に影響を及ぼしています。
たとえば、坂本龍馬が書いたとされる『船中八策(せんちゅうはっさく)』は、小楠が国家の指針として書いた『国是(こくぜ)七条』と『国是十二条』を参考にして述べたものでした。
明治政府の基本方針として、由利公正(ゆりきみまさ/越前福井藩士で、小楠の弟子)が立案したとされる『五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)』も、もともとは師の小楠の思想が根拠となっています。
もし小楠と出会わなければ、勝海舟や坂本龍馬らの考え方が進化する速度は、遅々として進まず、明治維新の実現はもう少し先になっていたかもしれません。
それだけ、小楠が彼らに与えた影響力は大きかったのです。
蘭学を学んだ勝海舟よりも蘭学を理解してしまう
横井小楠は、文化6年(1809)に、肥後熊本藩の百五十石取りの藩士である横井時直(ときなお)の次男として生まれました。
下級藩士の次男という立場では、家を継ぐことができないため、小楠は独立して身を立てるべく、幼少期から勉学に励みます。
その努力は実を結び、藩校「時習館(じしゅうかん)」で優秀な成績を収めると、29歳で居寮長(きょりょうちょう/塾長)に任命されました。
31歳の時にはその才能を見込まれ、選抜されて江戸への留学が許され、小楠はこの時期に佐久間象山も学んだ佐藤一斎や水戸藩士の藤田東湖(ふじたとうこ)など、多くの名士と交流を結びました(もっとも、酒で失敗した小楠は、帰藩逼塞(ひっそく)を命じられてしまいます)。
こうした小楠の持つ、先見性に感銘を受けた人物の一人に、幕末の“四賢侯(しけんこう)”の一人に数えられた越前福井藩主の松平慶永(まつだいらよしなが/号して春嶽(しゅんがく))がいました。
慶永は、たまたま来藩して、小楠から教えを受けた期間が短かったことを嘆き、熊本藩に対して小楠を福井藩に招き入れたい、と申し入れました。慶永自身が、熊本藩邸に赴いて直談判にも及んでいます。
その熱意が通じて、安政(あんせい)5年(1858)、横井小楠は松平慶永の政治顧問となりました。
文久(ぶんきゅう)2年(1862)に隠居となっていた春嶽が、幕府の政事総裁職(せいじそうさいしょく/大老と同等)に就任すると、小楠はその頭脳=師として、幕政改革に知恵を貸しました(開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いています)。
刺客に襲われた際、その挙動が士道に背くとされ、熊本藩から帰国を命ぜられ、知行(ちぎょう)没収、士籍剝奪(しせきはくだつ)の処分を受け、蟄居(ちっきょ/出仕・外出を禁じ、自宅の一室に謹慎させる刑罰)に処させられますが、維新後は新政府において「徴士(ちょうし)」「参与(さんよ)」「制度局判事」などの要職につき、小楠は国政に参画して明治の近代化に尽力しています(洋風化の中心人物とみなされ、キリスト教を広めたと誤解を受け、明治2年(1869)に暗殺されていますが)。
なぜ、小楠が幾度も失敗(多くは酒)しながら返り咲けたのか、それは周囲を驚かせる先見性を彼が持っていたからでした。
彼の桁外れの想像力といえるかもしれません。実は小楠も、当初は多くの志士と同様に、外国との通商に反対して撃退を主張する攘夷主義者でした。
しかし、西洋の事情を人から聞き、書物で理解していく過程で、徐々に開国主義者へと転じていきます。九州の熊本にいた小楠は、国学や漢学の知識は豊富でしたが、蘭学についてはわずかに知る程度でした。
西洋の事情については、勝海舟の方が詳しく知っていたのです。
ところが海舟によれば、西洋のことをまったく知らない小楠に、少しばかり西洋事情を教えると、彼は即座に理解してしまい、舌を巻いたといいます。
とくに海舟が渡米から帰国した後、小楠に現地の見聞を話すと、まさに「一を聞いて十を知る」状態で、瞬く間にアメリカの事情に精通してしまったというのです。
小楠の頭の良さ――想像力の豊かさは、ずば抜けていました。
時勢が流動的な幕末において、海舟も打つ手がすべて成功したわけではありません。そこで失敗した際に、小楠へ善後策(ぜんごさく)を相談に行くと、小楠はその失敗を利用して、失敗前よりも良くなる策を、すぐさま提案してくれるのが常だったといいます。
自尊心(プライド)が高く、自らを磨かない人を馬鹿にする海舟が、「とても梯子(はしご)を掛けても及ばぬと思った」と評したのは、当然のことであったかもしれません。
今から150年以上前に、令和の時代の思想を持っていた!?
勝海舟らから話を聞くことで、横井小楠は目指すべき未来像を「世界平和」という明確な形に定めていました。
日本の近代化の、さらに先の先まで見通していた小楠は、道徳のある理想の政治を国内で実現し、その政治理念を海外に広めて、世界中の国々と平和的に連帯していくことを、幕末の時点ですでに訴えていたのです。
彼が説く「理想の政治」とは、「大いに言路(げんろ)をひらき、天下とともに公共のまつりごとをなす」というものでした。
一部の特権階級や上層部だけが豊かになる封建主義ではなく、天下の万民が幸せになる政治をおこなうことを、小楠は理想としていたのです。
この思想がいかに卓越していたかは、同じく幕末の「知の巨人」と称された佐久間象山のものと、比べれば一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。
象山も開国派でしたが、開国して富国強兵を実現した後は、世界一の日本人の頭脳をもって「世界制覇」に乗り出すべきだ、と彼は主張していました。
封建主義の影響下にあった人間は、どうしても武力による平和の実現や繁栄という思想に、偏りがちになってしまうものです。
今から150年以上も前に、現代の「令和」における価値観に近しい思想を持っていた横井小楠。大転換期である現代社会において、師匠を持つなら、小楠ぐらいの先見性を持つ人を選びたいものですね。
歴史家・作家。1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師をつとめながら、独自の史観にもとづく著作活動を行っている。内外情勢調査会講師、中小企業大学校講師、政経懇話会講師。主な著書に『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)、『豊臣秀長「補佐役」最強の流儀』(ビジネス社)、『十干十二支の大予言』(笠間書院)など多数。立花宗茂をテーマにした『加来耕三が柳川で大河ドラマをつくってみた(RKB毎日放送)』は第57回ギャラクシー賞優秀賞(2019年度)を受賞。テレビ・ラジオの番組の監修・出演も多い。