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 知識やノウハウはネットを通して閲覧が可能になり、AIに尋ねれば瞬時に答えを示してくれる時代になった。それでもなお、“学びの質”や効率を高める人間の「師匠」の大切さは失われていない。『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)から内容の一部を抜粋。日本史の偉人たちが、優れた人物からどんな教えを受けてきたかを解説する。

 師匠は自分の目的やレベルに応じて変えていく必要がある。勝海舟は、師事する相手を柔軟に変えながら、貧乏な旗本から幕末を代表する幕臣へとのし上がった。その学び方の本質とは。

なにがなんでも出世したい。そのために師匠を次々に変えた

『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)

 まず海舟が、出世の手段として選んだのが剣術でした。

 前述したように、従兄弟にあたる男谷精一郎は直心影流の達人で、“剣聖”とまで崇(あが)められた人物です。精一郎から手ほどきを受け、彼の高弟・島田虎之助に厳しく鍛えられた海舟は、めきめきと腕を上げ、21歳で目録(奥許し)を授かります。

 これにより、島田の師範代として大名屋敷へ出稽古に回れる資格を得たわけですが、海舟はその程度の成功では満足しませんでした。

 ときを同じくして、20代でオランダ語に出会った海舟は、その世界に魅了され、のめり込んでいきます。蘭方医でもないのに蘭学を学ぶ者は変わり者だ、異国かぶれした奴だ、と白い目で見られていました。ペリー来航の10年も前のことであり、西洋式の軍学や砲術を学ぶ者もほとんどいない時代です。

 第一章で紹介したように、海舟は幕府天文方(てんもんかた)の翻訳局につとめる箕作阮甫に弟子入りを志願します。

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 阮甫は当時の江戸で一、二を争う蘭学の権威であり、のちに幕府の洋学所(蕃書調所)の教授に取り立てられたほどの人物です。蘭学の師匠として、おそらく彼以上の適任者はいない、と海舟は考えたのでしょう。

 ところが、弟子入りを願う海舟に対し、阮甫は出身地を問います。

 海舟が江戸であると答えると、阮甫は冷たく言い放ちました。

「江戸人には蘭学は向いていない。蘭学は野暮ったい努力が必要だが、江戸っ子は五月の鯉(こい)の吹き流し、口はあれどもハラワタは無し」

 美作国(みまさかのくに)津山藩の侍医出身である阮甫から見れば、江戸の人間は口先ばかり達者で、蘭学修行に一番必要な根気がない、と判断していたのです。

 結局、海舟が何度頼みに出向いても、阮甫は受け付けませんでした。

 ここで、海舟は発想を転換します。そもそも自分が蘭学を学ぶ目的は、オランダ語の通詞(つうじ)という専門家になることではありません。オランダ語を通じて、できれば剣槍の延長――西洋の兵学を修めるのが目的でした。

 ある程度オランダ語ができるようになれば、輸入される書物を読むことができます。権威ある阮甫に、なにがなんでも学ぶ必要はなく、オランダ語の読み書きを教えてくれる、ある程度のレベルの人であれば構わない、と考え直しました。

蘭学を学びつづけたおかげで咸臨丸の艦長に抜擢された

 次に海舟が師匠として選んだのが、すでに触れた筑前福岡藩士の永井青崖でした。青崖は蘭学者としては無名でしたが、『銅版萬国輿地方図』という世界地理図を手がけており、海舟は青崖を師と仰いで福岡藩の江戸屋敷に通い、勉強に励みました。

 こうして蘭学の基本(単語と文法)を身につけた海舟は、28歳のときに佐久間象山の私塾にも入り、西洋流砲術や兵学について、さらに研鑽(けんさん)をつみます。

 その後、ペリーが来航した際に、海舟は蓄えてきた西洋の知識――蘭学の成果を駆使して、国防の問題点や大砲の製造、人材登用までを記した建白書を幕府に提出しました。

 この提案が幕府への登用のきっかけとなったわけですが、一方で海舟は習得したオランダ語の知識を使って、自ら大砲の製造も手掛けました。

 世の中の動きが、ペリー来航の前後から、蘭学修行者に幸いするようになってきたのです。なにしろ、欧米列強の脅威が迫っています。ですが、泰平の中で眠りこけていた日本の軍備は、ことごとく実用には役立たなくなっていました。

 そのため西洋式の大砲が求められ、その製造には、当時の日本ではかなりの費用(コスト)がかかりました。製造を請け負った商人が、海舟のもとへ賄賂を持参し、工程を厳しく照合(チェック)せずに、手心を加えて利益を出させてほしい、と打診してきたのです。

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 海舟は「この大砲は、日本を海外列強から守るために造っているのだ。その大事な武器の銅の厚みを減らしたら、すぐに砲身(ほうしん)が壊れてしまうだろう。それでは列強の侵略を防げまい」と、懇々(こんこん)と説諭しました。

 自分の懐具合(ふところぐあい)を増やすことばかり考える武士や商人が多い中で、海舟が見せた気骨ある態度は、説教された商人をむしろ感動させます。さらにその評判は、当時の海防掛目付であった大久保忠寛(おおくぼただひろ/のち一翁(いちおう))の耳にも入ることになったのでした。

 訪ねてきた忠寛に、人物を認められた海舟は、幕府が長崎に開いた海軍伝習所の構成員(メンバー)に入ることができ、ついに海軍の技術官僚(テクノクラート)としての出世コースに乗りました。

 海軍伝習所の同期である他の幕臣や諸藩からの選抜メンバーは、ここでの成果を一刻も早く出世に役立てようと考え、一年間の教育課程(カリキュラム)を終えると、最低限の勉強しかこなしていないのに、次々に江戸や藩地へ帰っていきます。

 しかし、心底から出世を目論(もくろ)む海舟は、元々身分の低い自分が幕閣の中で、高級旗本の子弟に勝つためには、基本を一年学んだだけでは不十分だ、と現状を理解していました。

 そのため海舟は、自ら残留を希望し、長崎海軍伝習所の1期から3期まで、そのすべての講義と実技、演習航海に参加しつづけました。

 海舟にとって、これまでは書物でしか学べなかったことを、直接オランダ人の海軍士官に尋ねることができる環境は、勉強するうえでまたとない好機でした。彼はオランダ人の海軍士官を師と仰ぎ、この機会を逃すものか、と質問に質問を重ね、より高度な知識を吸収していったのです。

 その一方で海舟は抜け目なく、オランダ士官から聞いたことや、オランダ商館からの情報を独自に分析して、誰に頼まれたわけでもないのに、報告書にまとめて、定期的に江戸に送る作業もつづけました。

 その結果、「長崎には勝麟太郎(りんたろう)義邦(海舟の通称と諱)という見上げた幕臣がいる」と、幕閣の人々に認識されるようになったのです。

 三年間、蒸気船の操船技術を学んだことも評価されて、海舟は日本人が初めて太平洋を往復することになる、咸臨丸(かんりんまる)の艦長(キャプテン)に選ばれました(提督(アドミラル)は木村喜毅(きむらよしたけ))。

 幕臣としてアメリカに渡って、貴重な経験を積むことができたのです。