写真提供:共同通信社知識やノウハウはネットを通して閲覧が可能になり、AIに尋ねれば瞬時に答えを示してくれる時代になった。それでもなお、“学びの質”や効率を高める人間の「師匠」の大切さは失われていない。『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)から内容の一部を抜粋。日本史の偉人たちが、優れた人物からどんな教えを受けてきたかを解説する。
優秀な師匠は弟子自身が気づいていない“潜在能力”も見抜き、成長の機会を与える。吉田松陰や山縣有朋は、どのようにして若者たちの可能性を引き出したのか。
長所を褒め、チャンスをくれる師や上司を選びなさい

『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)
先の第二章では、のちに内閣総理大臣を何度も務めることになる伊藤博文――若き日の俊輔に対して、師の吉田松陰が「君には周旋家の才がある」と評価した話をしました。松陰の、相手をやる気にさせる能力は、実に卓越したものでした。
伊藤と同じ長州藩士の高杉晋作も、松陰に「君は勇気がある。決断力もある」と褒められてから、覚醒した一人です。
それまでの高杉は、何をやらせても根気がなく、学問をさせても修まらず、剣術を学ばせても中途半端で投げ出してしまっていました。周囲から「ダメな奴」だ、と烙印(らくいん)を押されていた高杉にとって、国禁(こっきん)を犯してまで、世界を知ろうとした国事犯(こくじはん)=英雄と仰がれた松陰からの称賛は、さぞかし自らを鼓舞(こぶ)する励みとなったことでしょう。
師として仰ぐには、松陰ほど適した人物はいなかったかもしれません。
松陰はさらに高杉に対し、学問は出世のために学ぶのではなく、世のため人のためになるような学問をすべきなのだ、と説き、「君ならできる」と励ましました。
この言葉も、高杉の心に深く刺さります。
長州藩の上級藩士に生まれた高杉は、あくせく勉強して出世する必要がなく、それゆえに目的意識も持てぬまま、毎日やることもなく、飽き飽きとした生活を送っていました。そんな高杉に、松陰は「生きる目的」を与えたのです。
また松陰は、高杉の才能を伸ばすために、好敵手となり得る秀才型の久坂玄瑞と競わせる手法をとりました。一人で学ぶよりも、具体的な目標を示すこと、実力が近い二人で競い合い、学んだほうが、より成果が上がる場合が多いからです。
結果として、怠け者と見られていた高杉が、目の色を変えて勉学に励むようになりました。
松陰に出会わなければ、高杉の名は後世に残らず、幕末から明治にかけての歴史も違ったものになっていた可能性があります。
松下村塾で教える以前、松陰は日本に開港を迫るためにやってきたペリーの黒船に、乗船しようとした罪で、長州藩の牢屋に入れられたことがありました。
このとき、松陰は楽しみなどないはずの牢内でも、同じように囚(とら)われの身となった人たちを巻き込み、学びの場を創り、彼らに希望を与えていました。
松陰は、囚人それぞれが得意なことを、各々が師となって、他の人々に教え、学び合うことを提案したのです。
俳句が好きな人は俳句の先生となり、書道が上手い人は書道の先生になるといった具合に、師の役割を分担し、松陰自身は『論語』や『孟子』を囚人たちに読み聞かせました。
師の役割を与えられたうえに、新しい知識も得られるようになった囚人たちは、皆いきいきとし始めます。これこそが教育者の役目であり、松陰はその能力に長けていたといえるでしょう。
若手を伸ばす上司と若手を潰す上司の違い
吉田松陰とは比べるべくもありませんが、松下村塾の門下生であった山縣有朋もまた、若い世代に好機(チャンス)を与えることを心がけた上司でした。
実のところ山縣本人は、才能にあふれた魅力的な人物とはいえません。
教養も浅く、得意なことといえば槍と漢詩を自慢する程度でしたが、彼は現場の実務処理能力には長けていました。
そもそも長州藩内に生まれたとはいえ、山縣は刀を一本しか差せない足軽以下の身分=卒族(そつぞく)の出身にすぎませんでした。与えられた役割も、京における藩要人の警護――。
ただ、山縣が一生懸命に務める姿が松下村塾に通う人々に知られ、国許へ帰ったら松下村塾へ行き、勉強したらどうか、と勧められたのでした。
山縣はその言葉に従いました。
のちに、槍の腕前が認められ、奇兵隊の初代総監であった高杉晋作に会えるようになったとき、山縣は「私も松下村塾にいました」と名乗り出て、そうか、そうか、と高杉に親近感を持たれ、より接近することに成功したのです。
実際には、山縣が塾に出入りし始めてすぐに、松陰は江戸送りとなったため、山縣は師の薫陶(くんとう)を十分に受けたわけではありませんでした。
代わって山縣の師は、高杉ということになります。山縣は高杉の下で、彼の苦手な奇兵隊の人事や予算管理を担い、高杉が若くして亡くなると、次に頭角を現した軍略家の大村益次郎(おおむらますじろう)の下でも、同様に実務を担いつづけました。
上司の指示を忠実に遂行する実務家の山縣は、大村が暗殺されたのちは、いつの間にか藩内の軍事(とりわけ陸軍)で相応の地位を得るまでになっていたのです。
とはいえ、自身の才覚だけでトップに君臨できるだけの能力を持たない山縣は、常に優秀な人材を見出しては引き上げ、自らを守る側近に育てる方針をとりました。
重要な地位につければ感謝され、彼らが自分を助けてくれるだろうという計算が、山縣にはあったのです。
動機はきわめて不純であり、あまり尊敬はできませんが、自分より優秀な若手を早めに潰そうとする上司も多い中、結果的に若手に好機を与えた山縣の行為そのものは、評価できるように思います。
低い身分から這い上がった山縣には、下積みでくすぶる人間の心情が手にとるように理解できたのでしょう。
その具体的な例として、山縣はのちに日露戦争時の総理大臣となる桂太郎(かつらたろう)を見出しました。桂は山縣の下で派閥政治の力学を学び、昭和以前では最長となる内閣を組織するに至りました。
さらに山縣は、長州の支藩である徳山藩出身の児玉源太郎(こだまげんたろう)も抜擢しました。
西南戦争の熊本籠城戦で指揮能力を認められた児玉は、山縣を筆頭とする長州閥の本流に迎えられたのです。
その後、児玉は日露戦争で満州軍総参謀長として腕を振るい、日本陸軍をロシアに勝利させる立役者となりました。
松陰や山縣のように、若者に希望やチャンスを与える師を持つことが、人生を切り拓く鍵となるといえるのではないでしょうか。
歴史家・作家。1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師をつとめながら、独自の史観にもとづく著作活動を行っている。内外情勢調査会講師、中小企業大学校講師、政経懇話会講師。主な著書に『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)、『豊臣秀長「補佐役」最強の流儀』(ビジネス社)、『十干十二支の大予言』(笠間書院)など多数。立花宗茂をテーマにした『加来耕三が柳川で大河ドラマをつくってみた(RKB毎日放送)』は第57回ギャラクシー賞優秀賞(2019年度)を受賞。テレビ・ラジオの番組の監修・出演も多い。