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 信長、秀吉、家康に重用された大戦略家・黒田官兵衛、秀吉の天下統一を支えた弟・秀長など、いつの時代も成長するリーダーの傍らには、優秀なブレーンが控えている。『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)から一部を抜粋。限られたリソースで最大限の結果を出してきた乱世の軍師たちの姿から、現代のビジネスに通底する戦略を探る。

 合戦では子細に報告を求め、全てを把握し判断することを好んだ秀吉。現代でいうCEO的立場にあった秀吉に対し、実直な秀長はどう行動したのか。

士は己を知るものの為に死す

『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)

「士は己を知るものの為に死す」という「知己」という語の語源になった言葉が『史記』にある。実の兄弟にしかわからない“知るもの”があったのだろうが、この言葉のように兄に尽くして「死す」という人生でもあったろう。

 他方、秀長の重臣だった藤堂高虎も「士は己を知るものの為に死す」という生き方を秀長のためにした人物といってよいのではないだろうか。それは九州征伐など様々な戦いでの獅子奮迅の働きや秀長の指示でおこなった事柄から推察される。

 そのためもあり、秀長亡き後、藤堂高虎は大徳寺に大光院をつくって祀ったり、秀長の三十三回忌法要まで行ったりしている。それだけ、高虎は自分の恩人として感謝の思いが強くあったと考えられる。その意志、高虎の感謝の念を継いでか、藤堂家は大光院を江戸時代を通じて明治になるまで援助していたという。

 このことは、いかに秀長が家臣の心を掴んでいたか、いかに良好な関係だったか、「道は君臣に合す」の一つの証左ではないだろうか。

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 三十三回忌の法要であるが、現代でも三十三回忌までされる家というのは少ないのではなかろうか。これをもってしても、高虎の人生哲学、生き方がわかるような気がするのは筆者だけだろうか。

秀長と秀吉は、COOとCEO的関係か?

 秀吉と秀長のような関係を現代で探すと、伝説的な経営者であるホンダ創業者の本田宗一郎と盟友的な副社長だった藤沢武夫との関係が近いかもしれない。天才的な技術者の本田を経営の実務面で支え続けた名補佐役が藤沢武夫だった。社長と副社長という関係だったが、いわばCEOとCOOの関係ではなかったろうか。

 とまれ、秀吉と秀長である。二人の関係を現在残っている書状から推察しても、秀吉の意思決定を実現する的確な執行者、執行役といえようか。

 まず、秀吉が織田家の主導権を握る賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの際の緊迫した状況のなかでの書状だ。天正11年(1583年)卯月(4月)3日の美濃守(秀長)宛書状(長浜城歴史博物館所蔵)である。

 柴田勝家との決戦が迫っている緊迫感の伝わってくる内容である。秀長は秀吉本隊とは別動隊の大将を務めていて近江木之本周辺の田上山城という陣城に布陣していたといわれているので、別の場所にいる秀吉との密なる連携連絡が必要だった。柴田勝家軍との距離は二里(約8キロ)と伝えられている。この書状には七項目の条があるが、その中のいくつかをピックアップしてみよう。

「(賤ヶ岳の戦いにおける)惣構(そうがまえ/城や陣城・砦などを土塁や石垣などで囲った防御施設)の堀より外に向けて鉄砲を放たないこと、草刈りふぜいに至るまで一人も外に出してはならない」ことを具体的に指示している。小競り合いで偶発的に決戦の火ぶたが切られることがないよう、最前線に慎重な行動を厳重注意しているといえよう。その意味でも秀吉が惣構での行動を厳命したところに秀吉の一糸乱れぬ戦略の意志が見て取れる。

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 さらに、「少々事も注進細々可在之候、其を以致分別」と述べている。少々のことでも(どんな些細な事でも)細々とすぐに報告するように。その内容をもとに自分が判断する、と述べている。秀吉がすべてを把握して判断する、意志決定するというわけである。自分がすべてを把握していなければ気が済まない性格の表れともいえようか。だからこそ、戦機、勝機を逃さず、勝利を手にすることができたともいえよう。

 また、小牧長久手の戦いの際の天正12年5月5日の秀長宛の書状(大阪城天守閣所蔵)にも「指儀無之候共 細々飛脚待入候」と記している。大した内容でなくても細々と飛脚を用いて連絡してくるようにと命ぜられている。

 これは意思決定者が秀吉、秀長はそれを忠実に実行する、という役割を意味するだろう。秀吉の了解がなければ何事もダメということともいえよう。これが秀吉流のやり方、性格だったかもしれない。

 その意味でも、たとえ秀長であっても、独自の判断で自由に行動できたわけではなく、秀吉の了解、指示の範囲内ということであろう。その大枠の範囲内で、秀長は忠実に執行、運用を行った。

 ただ、秀長は兄・秀吉の性格を熟知しているので、大枠は従いながらもごく稀に現場の微妙な情勢判断や大局観から若干の独自の判断などもあったようである。そのような場合には、秀吉は聞き入れる場合もあったろうし、また、秀吉から「成敗」するぞ、というような言葉を投げかけられたことも時にあったであろう。そういう兄弟関係だったと考えられる。

 このような関係性でもあったので、もしかすると、実直な秀長のこと、過労に加えて気遣いなどのストレスがたまってきていたかもしれない。52歳(満50歳)という年齢で亡くなってしまったのがもったいない。秀長へのロマンを様々に誘うところであろう。