山積する社会やビジネスの課題。だが、経済学でその解決法が示されているケースは少なくない。行動経済学の第一人者・大竹文雄氏による書評集『経済学的思考を組み立てる』(中央公論新社)から一部を抜粋。多様な書物を手がかりに、「エビデンス」と「物語」を両輪としてよりよい判断につなげるための思考のヒントを提示する。
経済学はビジネスの現場でどこまで役立つのか。価格設定からマッチング、規模拡大の落とし穴まで、実例をもとに読み解く。
経済学はビジネスにどう役立つのか

『経済学的思考を組み立てる』(中央公論新社)
経済学部を卒業した大企業のトップが「大学時代に学んだ経済学は会社では直接役に立たなかった」と発言するのを何度か耳にしたことがある。経済学者として二つの意味でとても残念なことだ。
第一に、現代の経済学は企業経営にも非常に役に立つのに、それが企業の人たちに知られていないという点である。第二に、経済学はビジネス上の意思決定にとても有効であることを、経済学教育で重視してこなかったという点である。
経済学の教育では、企業や人々が合理的に行動していることを前提にして議論し、政府ができることは何か、を中心にすることが多い。しかし、実際の現場では、様々なバイアスや思い込みによって、最適な行動から乖離していることも多いのだ。このギャップの存在とその解消法を丁寧に教育しないと、経済学は机上の空論だという印象を持たれてしまう。
実際の経済学は、新しいことの発見を中心としたサイエンスの側面だけではなく、個別の実務課題を解決するエンジニアリングとしての側面を強めている。その側面が軽視されてきたことは経済学教育の問題点だ。
日本でも経済学をビジネスに実装する動きが始まった。『そのビジネス課題、最新の経済学で「すでに解決」しています。』の著者である今井誠氏、坂井豊貴氏らは、そのためのエコノミクスデザインという会社を2020年に創設した。同じ年に、東京大学エコノミックコンサルティングが設立されている。どちらも、経済学をベースに企業や公共部門が抱える課題を解決することを業務としている。また、山根承子氏が2020年に創設したパパラカ研究所、22年に平井啓氏と私が創業したCoBe-Techは、行動経済をベースにしたコンサルティング会社だ。
経済学が役に立つと言われてもピンとこない人のために、著者の今井氏ら自身が扱った典型例をわかりやすく紹介しているのが本書である。
実務家にわかりやすいのは、価格設定における経済学の有効性だろう。経済学では、価格と製品需要の関係を企業が知っていて、利潤が最大になるように価格設定していると考える。しかし、著者たちによれば、実際の企業は価格と需要の関係を完全には理解していないため、価格設定も間違っていることが多いという。
需要と価格の関係を示す需要曲線の特徴が正しくわかれば、顧客ごとに異なる価格を付けることでより利益を上げることができる。獲得した顧客の属性別の継続確率がわかれば、どのタイプの顧客を獲得することに力を入れれば長期的な利益を最大にできるかもわかる。さらには、価格提示やポイント付与の方法に行動経済学の知見を活かすこともできる。難しいのは需要曲線の形状を正しく知ることだ。実験的な手法も重要だ。
実務で応用できる現代経済学の分野にマッチング手法がある。企業内での従業員の配属決定、保育所の入所選考に直接役立つマッチング・マーケットデザインは既に確立された手法になっている。オークションの設計もそうだ。本書で紹介されたこと以外にも経済学で解決可能な実務課題は多い。
今後、経済学の実務実装を進める上で「確実性の高い真理を求める学界と、不確実でもスピード感を重視するビジネス現場の違い」を双方が理解して協力関係を築くことが最も重要だ。本書は、経済学の価値を再認識できるという意味で、実務家だけでなく研究者や学生にも有益だ。
今井誠/坂井豊貴編著『そのビジネス課題、最新の経済学で「すでに解決」しています。―仕事の「直感」「場当たり的」「劣化コピー」「根性論」を終わらせる』日経BP、2022年
ビジネスの規模拡大に経済学
経済学者にビジネスの相談をしても無意味だというのが世間の常識だろう。経済学を机上の空論だと思っている人は多いからだ。しかし、現在の経済学はビジネスや公共政策に直結している。それを自ら示してきたのが、『そのビジネス、経済学でスケールできます。』の著者でシカゴ大学教授のジョン・A・リスト氏だ。現実社会で実際に介入して実験し、仮説を検証するフィールド実験という分野を創設した。彼がノーベル経済学賞を受賞するのも時間の問題だと、多くの経済学者は考えている。
彼が対象にしてきた分野は多岐にわたる。寄付金を集める際のメッセージやアルバイトへの賃金の支払い方、配車サービスに不満を持った利用者への謝罪の仕方、運転手にチップを導入すべきか否か、パイロットに燃料節減をさせる方法、就学前教育の効果、成績を上げるための子供や教師への報酬の与え方、納税率を高める方法、糖分摂取を減らす方法、企業の社会的責任が社員の行動に与える影響などだ。すべて非常に具体的な課題だが、実社会で介入して効果検証を行う点に特徴がある。どのテーマも、その分野で実務に携わる人には極めて重要なものだ。
著者は配車タクシー会社のウーバーとライバル社リフトのチーフエコノミストを経験し、アメリカ政府の大統領経済諮問委員会で環境政策担当の実務も担っているだけでなく、就学前教育の効果検証のために、保育所も設立している。
本書で明らかにしたのは、政策やビジネスで規模が小さいうちはうまくいくけれど、拡大するとうまくいかなくなる原因とその解決方法だ。つまり、規模拡大に成功するアイデアと失敗するアイデアを区別する方法だ。実社会での検証を学問的に世界最高水準で行った研究をもとにしている上に、本人の実務経験も踏まえている。
うまくいきそうに思えたアイデアが規模拡大に失敗する理由は5つある。第一に、うまくいきそうに思えたのが偶然だったという偽陽性だ。第二に、もともとうまくいく対象者は非常に限られた人だけだという代表性の問題だ。第三に、そもそも大規模にできない要素がサービス提供側と利用者側に含まれている可能性だ。第四に、アイデアを拡大すると予想外のことが生じるスピルオーバー効果だ。賃金が高い職業を知った少人数の人が転職したら、その人たちは賃金上昇を得られるが、大量の人が転職すると供給が増えて賃金は増加しなくなる。第五に、コストが高すぎてそのコストを支払える人が少ない場合だ。これらは、データをもとに分析できる。
さらに、私たちが気を付けるべきことが4つある。第一に、適切なインセンティブを設計することだ。単に金銭的インセンティブを付けるだけではなく、フレーミングや社会規範をうまく使う必要がある。第二に、平均ではなく限界的な費用を計測して事業資源を適切に配分することだ。第三に、サンクコスト(埋没費用)、機会費用、比較優位という概念を理解して撤退時期を間違わないことだ。第四に、信頼と協力をベースにした組織文化を創ること、つまり、行動経済学の知見が必要だ。
経済学を実装しないで政策やビジネスをすることで、無意識に失っているものがいかに多いかを実感できる。
ジョン・A・リスト『そのビジネス、経済学でスケールできます。』高遠裕子訳、東洋経済新報社、2023年
1961年京都府生まれ。京都大学経済学部卒業。大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。大阪大学大学院経済学研究科教授などを経て、大阪大学感染症総合教育研究拠点特任教授。博士(経済学)。専門は行動経済学、労働経済学。2006年、日本経済学会・石川賞受賞。08年、日本学士院賞受賞。著書に『日本の不平等』(日本経済新聞社、2005年。サントリー学芸賞、日経・経済図書文化賞、エコノミスト賞受賞)、『経済学的思考のセンス』(中公新書、2005年)、『行動経済学の使い方』(岩波新書、2019年)、『あなたを変える行動経済学』(東京書籍、2022年)、『経済学者のアタマの中』(ちくまプリマー新書、2025年)など。
